teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成


今年の桜

 投稿者:おとうさん  投稿日:2017年 4月 9日(日)20時00分37秒
編集済
  和歌山城の桜は満開です。  
 

合掌

 投稿者:おとうさん  投稿日:2017年 4月 7日(金)19時31分9秒
編集済
  2017.4.4 お葬式
二十歳で亡くなった麗華ちゃん、安らかに。
 

3月25日大恩寺

 投稿者:おとうさん  投稿日:2017年 4月 1日(土)18時27分22秒
編集済
  ゆきこおばあちゃん13回忌
 

田植の季節

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月22日(日)20時47分50秒
  27日から焼山に帰って田植をします。ヽ(^。^)ノ  

運動会

 投稿者:成吾  投稿日:2016年 5月21日(土)19時13分0秒
  はるきは、おたふく風邪のためパパのみの参加に。
 

(無題)

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月13日(金)16時12分42秒
  雪の大谷ウォークⅢ  

(無題)

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月13日(金)16時11分12秒
  雪の大谷ウォークⅡ  

(無題)

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月13日(金)16時09分23秒
編集済
  雪の大谷ウォーク
世界的にも有名な「雪の大谷」、室堂ターミナル周辺の道路に積もった雪を除雪してできる「雪の壁」で、壁が連なる約500mの区間のことを「雪の大谷」と呼びます。
「雪の大谷」は吹きだまりのため特に積雪が多く、その高さはなんと、20mに迫ることも!
 

(無題)

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月13日(金)16時01分38秒
  記念写真  

(無題)

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月13日(金)15時59分0秒
  スイスのよう  

(無題)

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月13日(金)15時56分44秒
  黒部ダム  

(無題)

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月13日(金)15時55分17秒
  わさび農園  

(無題)

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月13日(金)15時52分56秒
  4月17日~18日 黒部・立山に
 

伊丹にて

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月13日(金)15時48分2秒
  かいと(9歳)・ゆう(7歳)
 

記念写真

 投稿者:よしえ  投稿日:2016年 5月13日(金)13時09分59秒
  そうま(7歳)・はるき(今月4歳)・あつと(1歳)  

(無題)

 投稿者:おとうさん  投稿日:2014年 7月25日(金)16時10分7秒
 
 

(無題)

 投稿者:おとうさん  投稿日:2014年 7月25日(金)16時07分44秒
編集済
  テスト
 

おめでとう

 投稿者:おとうさん  投稿日:2014年 3月 9日(日)10時57分45秒
  32歳ですね、ますます仕事に家庭に頑張って!
 

(^○^)

 投稿者:おとうさん  投稿日:2013年 7月10日(水)22時42分28秒
  そうまくん
 

給食当番

 投稿者:おとうさん  投稿日:2013年 7月 7日(日)10時42分7秒
  亜希ちゃんから、写真が届きました。
 

(無題)

 投稿者:おとうさん  投稿日:2013年 6月23日(日)10時24分57秒
編集済
  ミニトマトが育ってきました。
 

快・優

 投稿者:おとうさん  投稿日:2013年 6月20日(木)04時44分55秒
編集済
  元気です。(^○^)
 

シンガポール

 投稿者:お父さん  投稿日:2013年 4月17日(水)06時35分12秒
 
 

還暦祝い

 投稿者:おとうさん  投稿日:2013年 2月23日(土)07時36分19秒
  22日は、おかあさん60歳の還暦になりました。
 

(無題)

 投稿者:おとうさん  投稿日:2013年 1月 2日(水)20時04分31秒
  祝箸
 

2013年正月

 投稿者:おとうさん  投稿日:2013年 1月 2日(水)20時00分44秒
  全員集合  

亜希ちゃんから

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年12月24日(月)13時18分37秒
編集済
  快は大きい自転車になりました、優はリラックマグッズです。(^_^)/
 

メリークリスマス

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年12月23日(日)19時24分49秒
編集済
  佳代ちゃんから (^○^)
 

マリーナ・ベイ・サンズ

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年12月22日(土)20時56分38秒
   

西表・竹富・由布・小浜・石垣島 八重山諸島めぐり

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年11月 8日(木)20時02分17秒
  八重山諸島は、中心となる石垣島をはじめ、有人島では日本最南端の波照間島・日本最西端の与那国島・西表島・黒島・小浜島・竹富島・鳩間島・新城島・由布島の有人島と、尖閣諸島などの多くの無人島からなる。島々はサンゴ礁に囲まれ、亜熱帯特有の自然景観に恵まれている。国指定の天然記念物も多数あり、自然の宝庫。・・・11月17日から20日まで行ってきます。

http://www.hankyu-travel.com/tour/detail_d.php?p_course_id=6B6664K&p_hei=30

 

撰要寺 Ⅱ

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 5月 6日(日)15時39分18秒
編集済
  高源院のお墓はお寺の中腹ですが、もう少し上の方に高源院の子供のお墓がありました。
左がお兄さんの小笠原氏信様、右が弟の茂次様・・・過去帳に記載の戒名とピッタリ一致しました。
氏信様は小牧・長久手の戦い(天正12年・1584年)で戦死しました。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ogasa_tk.html

 

撰要寺

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 5月 6日(日)15時19分50秒
編集済
  5月4日、連休を利用してご先祖にお会いする旅に出掛けました。
掛川市の撰要寺と高天神城跡が目的地です。
我家の過去帳のトップにある高源院様のお墓が見つかりました、左のお墓が小笠原清廣(高源院のお兄さん)、右が義頼(よしより)こと高源院様・・・お亡くなりになったのは慶長18年(1613年)9月12日です(徳川家康死去は1616年)。・・・二人の父親は小笠原春儀(春茂)で深志小笠原家に繋がります。
また二人は、徳川家と武田家の間で揺れた高天神城主・小笠原長忠の叔父にあたります。

http://tikugo.exblog.jp/15500353/

 

3月9日

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 3月10日(土)14時22分48秒
  30歳おめでとう!
 

大連

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 3月 7日(水)21時31分30秒
  2時間で行ける近くの都市、活気溢れる街でした。
 

大連

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 3月 7日(水)21時27分20秒
  大粒のイチゴも20元(260円)で山盛りでした。
韓国型焼肉店も安くておいしい。
 

大連

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 3月 7日(水)21時23分15秒
  水族館にも
 

大連

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 3月 7日(水)21時20分44秒
  大連駅の近くにあったホテルに泊まりました。
 

大連

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 3月 7日(水)21時16分29秒
  ロシア人街
 

大連

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 3月 7日(水)21時15分12秒
  203高地
 

おめでとう

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 1月 3日(火)10時43分12秒
 
 

おめでとう

 投稿者:おとうさん  投稿日:2012年 1月 3日(火)10時41分21秒
 
 

2011.12.31

 投稿者:おとうさん  投稿日:2011年12月31日(土)14時26分54秒
  明日は、お正月。  

小笠原 成吾

 投稿者:おとうさん  投稿日:2011年12月18日(日)14時49分12秒
  総画数:37画
◆◆◆総運(総画)◆◆◆
37画の人は責任感がとても強く、社会への順応性が高い画数です。持ち前の備え持つ能力を最大限に発揮させて成功へと導きます。37画の特徴は辛抱強さ、忍耐力、忠誠度、や状況判断の抜群さにあります。独立心の強さから人と群れをなしたり体制に流されることを嫌いますが、処世にも優れているたも組織の一員としとも着実に出世街道を歩めるでしょう。一方で温かみに欠けたり協調性を忘れると孤立しますので注意して下さい。
 

小笠原 功二

 投稿者:おとうさん  投稿日:2011年12月18日(日)14時47分7秒
  総画数:31画
◆◆◆総運(総画)◆◆◆
冷静沈着で独立心に富み、豊かな知性と優れた指導力の持ち主です。年令を重ねるごとに徳を積み、自己反省による進歩向上と大きな度量によって成功と人望を勝ち得ます。31画は「志望がかない・幸福・安泰」の意味があり人格者たる霊動力を持つ大吉数です。31画は凶意を和らげる力もあり『六大吉数』と呼ばれます。31画は智、仁、勇の三徳を得られるとされ、更には融合、雅量ともに備え持ちます。確固たる信念を持っての行動と共に人の失敗を許す寛容力と包容力も備え持ちます。常に心身の修養に心掛けるなら地位、名誉、財運共に栄える吉運数です。
 

スカイプ成功

 投稿者:おとうさん  投稿日:2011年11月 3日(木)09時13分6秒
編集済
  横浜の蒼真くんと会話が出来ました。
 

スカイプ

 投稿者:おとうさん  投稿日:2011年10月30日(日)17時32分1秒
  パソコンにアマゾンで売っている、2,313円のカメラをつければ簡単にテレビ通話ができるよ。

http://www.amazon.co.jp/LOGICOOL-%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E3%82%AB%E3%83%A0-HD%E7%94%BB%E8%B3%AA-120%E4%B8%87%E7%94%BB%E7%B4%A0-C310/dp/B003YUB66K/ref=sr_1_9?ie=UTF8&qid=1319850053&sr=8-9

 

パナソニック プラズマテレビ

 投稿者:おとうさん  投稿日:2011年10月20日(木)20時50分45秒
編集済
  42型です。  

スカイプ

 投稿者:おとうさん  投稿日:2011年10月20日(木)20時36分10秒
  ただで顔が見えて声が聴こえるスカイプ、11月から我家に設置します。

http://panasonic.jp/viera/products/rt2b/p_vieralink.html

 

おもしろいよ

 投稿者:おとうさん  投稿日:2011年10月17日(月)06時00分12秒
編集済
  和歌山出身の作家、津本 陽の作品です。
高天神城の戦いが描かれていて面白いよ。
 

歴史は楽しいね!

 投稿者:おとうさん  投稿日:2011年 9月24日(土)16時54分8秒
編集済
  高天神城は元亀2年、信玄が駿遠制覇の拠点とするため、2万の兵を率いて攻撃した。しかし、城主小笠原長忠以下2千の兵は城を守りきり、難攻不落を武田軍に知らしめた。小笠原氏は信濃守に任じられるものが多く、更に足利時代に入るとその武功により信濃守護に任ぜられ、信州に根強い地盤を持っていた。小笠原一族は戦国の大族でもあった。小笠原氏が高天神城に入ったのは、今川家の重臣であった福島(くしま)総介一党が没落、その後を襲ったものとされている。その後桶狭間で今川義元が討たれ、家督を継いだ長忠は、今川家が衰退する中で、永禄11年(1568)徳川家康に帰服している。その後、小笠原氏は高天神城に三代、30年以上を経て、武田軍の来襲の危機を迎えた。
天正二年五月、武田軍は高天神城を幾重にも包囲した。武田軍の来襲を知った小笠原衆は城の防備を固めるとともに、浜松上の家康に後巻きの兵を派遣の要請を繰り返した。武田軍の損害をかえりみない攻撃に対して、篭城する小笠原衆は次第に守勢に立ち、消耗していった。高天神城主小笠原長忠は、「城中のもの疲れはて、兵糧、硝薬ともに尽き、このうえは十日と保ちがたく、必死の危うきに至るなれば、一時も早く後巻きを願い奉る。」との書状を使者に託し、家康のもとに向かわせた。しかし、家康は動かなかった。家康が援軍を派遣しなかった理由は、いくつかあったとされている。ひとつには、信玄亡き後とはいえ依然として武田軍の戦力には恐るべきものがあり、徳川軍は三方が原で武田軍に完膚なきまでに大敗しており、家康自身にも武田軍に対する怯えがあった。徳川軍は全兵力をもっても八千、武田軍に対抗できる兵力ではなかった。そこで、信長に援軍を求めるが信長からも返事がこない。信長も援軍の必要性を知りながら、武田軍と激突したときの被害を考えると容易には結論が出せないでいた。しかし、放置しておけば家康は信長と絶縁、武田と結ぶ可能性もあった。信長もまた、選択を迫られていた。さらに、家康が高天神城に援軍を出さなかった理由に、遠祖をたどれば武田同族である小笠原長忠の裏切りを警戒していたとも言われる。信長の援軍を待たず、徳川軍が援軍に向かったところを、万一小笠原衆が武田軍に就けば、徳川軍は壊滅状態となることは予想できた。こうして、姉川、越前金ヶ崎の戦闘で徳川軍の先陣を切って戦い、織田勢力に尽力した小笠原衆は家康に見捨てられていくこととなる。既に高天神城方は、西の峰の曲輪が落ち、東の峰の本丸周辺に追い込まれていた。しかし、依然として必死の抵抗をつづけており、武田軍の消耗も激しくなってきていた。さらに攻撃を命ずる勝頼に、馬場信春、山県昌景ら信玄の元で働いてきた老練な武将たちが調略を進言し、小笠原長忠の親戚である駿河先方衆の岡部丹波守が使者として城内に送られた。降伏の条件は「城中の者は残らず助命し、武田に随身いたす者は加増のうえ召し抱える。城主小笠原長忠殿には、富士の裾野にて一万貫(十万石)の所領をつかわす。」とされた。小笠原長忠は、西の丸が武田勢の手に落ちた三日後にも、浜松の家康に後巻きの要請のための使者を送っていた。しかし家康の返事は変わらなかった。「すぐにも援兵を出そうゆえ、いましばらくはささえよ。」というものであった。長忠は家康が自分たちを見捨てるつもりであることを覚った。「家康、信長は後詰めをいたすゆえ、城を堅固に守れと申すが、人数を寄越さぬつもりだ。浜松より僅かにに十里、来る気もなし。信長とて同様なれば、両人ともに頼みがたし。姉川合戦に、われらは五十里の道を厭わず参陣いたし、家康、信長のために命を捨て働きしにあらずか。勝頼は和談を申し入れ、われらが身のたつよう扱いいたすとのこと。もはや道はひとつにあらず。」もともと徳川譜代の武将ではない小笠原長忠は決意し、武田からの和議に応じた。
小笠原長忠は最終軍議の結果、開城後篭城の将兵がそれぞれに武田に帰順するか徳川に帰順するかを選ぶ権利を与えてほしいと勝頼に申し出ており、その返答をまって開城した。
この時,武田方についた者を東退組といい、城を出て浜松城の家康のもとに走った者を西退組と呼びました。
 

レンタル掲示板
/9